球団創立は1950年まで遡ります。その年からプロ野球の2リーグ制がスタートするのに際し、参入球団として誕生したのが、国鉄スワローズです。その後サンケイを経て、1969年から現在のヤクルト球団になっています。
「ミスタースワローズ(若松勉)」が語る
入団秘話と初の日本一
元々、身体が小さくてプロ野球に入る気はなかった。ずっと断っていたが、 中西太コーチがスカウトと一緒に札幌まで来て、「野球選手は身体に関係なく、下半身がしっかりしていれば」と父親に話してくれて入団を決めた。 中西さんに言われた通り、下半身を徹底的に鍛えて自分のフォームを固めた。1978年、広岡達朗さんが監督の時に優勝したが、それまで勝てない時期が続いたし、 小さい頃から大きな優勝を経験したことがなかったので、とても嬉しかった。ヤクルトは、野球選手を引退した後の第2の人生もしっかりと考えてくれる温かみのある球団。 若い選手を育てて、強いヤクルトを目指して頑張ってほしい。
「野村克也元監督」が語る
ID野球と黄金時代
現役時代、セ・リーグに縁がなかった私に、相馬和夫球団社長が「あなたの野球を叩き込んでほしい」と声をかけてくださった。 勝負に徹するあまり、厳しく当たったかもしれないが、選手は皆よく応えてくれ、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一を果たせた。 また、教え子たちが指導者としても活躍してくれた。「人を遺す」ことができたのが何よりスワローズへの恩返しになっただけでなく、 私の野球人生においても大きな喜びだ。感謝しかない。
「古田敦也元兼任監督」が語る
チーム再構築の時代
僕だけでなく、主力がベテランになってきて若手に切り替えないといけない時期だった。 僕が言うのもおかしいが、16年間も一人のキャッチャーが基本的にはプレーしていたので、 一番の命題は僕の後継者を作ることだったと思う。出来るだけ若い選手にチャンスを与えなければいけなかったが、 なかなか結果が出なかったので申し訳なく思っている。やはり、優勝してファンに喜んでもらうのがプロ野球。 球場全体をスワローズファンで埋め尽くすくらいのチームになって、強くなってほしいと思う。
「真中満前監督」が語るV字優勝と球団の伝統
ずっとヤクルトにいたので、選手の性格や能力は把握していた。 個性のある選手が多いのでその芽を摘まないように。 皆の個性を活かしながら戦えればと思い、それがうまく機能して優勝という結果になった。 ヤクルトは選手だけでなく、フロントと現場の距離感が非常に良いチームで、 人間味がある温かい球団。ファンあってのプロ野球だから、ファンを大事にする。 ヤクルトの伝統が、ずっと繋がってきていると思う。
さだまさしさん
(シンガーソングライター・小説家)
さだまさしさん
(シンガーソングライター・小説家)
ファンになって高々30年ちょっとの僕には永年の、殊に国鉄時代からのファンは『神』だ。
とにかくスワローズファンは温かなホスピタリティに満ちて品が良い。球団も家族的で選手に優しい。選手同士もとても仲が良い。
遠征・移動の際のネクタイ、スーツ姿もスワローズが始めた。
昭和60年、阪神が神宮球場で優勝を決めたとき、スワローズファンは『阪神ファンの皆さん優勝おめでとう。日本シリーズ頑張ってください』という垂れ幕を掲げた。これには感動した。
ファンは自分本位の利己主義的傍若無人な応援をしない。これは物足りなさの一面でもあろうが、最も愛すべき所でもある。だからアンチ・ファンがいない。
そこのところが実に悔しいが幸せだ。
ファンになって高々30年ちょっとの僕には永年の、殊に国鉄時代からのファンは『神』だ。
とにかくスワローズファンは温かなホスピタリティに満ちて品が良い。球団も家族的で選手に優しい。選手同士もとても仲が良い。
遠征・移動の際のネクタイ、スーツ姿もスワローズが始めた。
昭和60年、阪神が神宮球場で優勝を決めたとき、スワローズファンは『阪神ファンの皆さん優勝おめでとう。日本シリーズ頑張ってください』という垂れ幕を掲げた。これには感動した。
ファンは自分本位の利己主義的傍若無人な応援をしない。これは物足りなさの一面でもあろうが、最も愛すべき所でもある。だからアンチ・ファンがいない。
そこのところが実に悔しいが幸せだ。
出川哲朗さん
(お笑いタレント)
そのピッチャーは、マウンドでニヤニヤにやつきながら投げていた。当時、子供達はみなジャイアンツの帽子を被り、王選手はスーパースターだった。その王選手をいつもヘロヘロ球で抑えていたのが安田猛だった。 手足も短く、お腹もポッコリ出ている。そんなピッチャーが王選手を抑える様が、子供だった自分をワクワクさせた。気が付くと安田選手のファンとなり、ヤクルトスワローズを応援していた。以来、42年間スワローズを応援して来た。 低迷期も黄金期も。胴上げも何度か観させてもらった。だから、これだけはハッキリ言える。自分はこれからもお爺ちゃんになってもヤクルトスワローズを応援し続ける。そしてまた、92年の伝説となった西武との日本シリーズの様な熱い戦いを観せて欲しい。 ヤクルト球団設立50周年おめでとうございます。
そのピッチャーは、マウンドでニヤニヤにやつきながら投げていた。当時、子供達はみなジャイアンツの帽子を被り、王選手はスーパースターだった。その王選手をいつもヘロヘロ球で抑えていたのが安田猛だった。 手足も短く、お腹もポッコリ出ている。そんなピッチャーが王選手を抑える様が、子供だった自分をワクワクさせた。気が付くと安田選手のファンとなり、ヤクルトスワローズを応援していた。以来、42年間スワローズを応援して来た。 低迷期も黄金期も。胴上げも何度か観させてもらった。だから、これだけはハッキリ言える。自分はこれからもお爺ちゃんになってもヤクルトスワローズを応援し続ける。そしてまた、92年の伝説となった西武との日本シリーズの様な熱い戦いを観せて欲しい。 ヤクルト球団設立50周年おめでとうございます。
出川哲朗さん
(お笑いタレント)
村上春樹さん
(小説家)
神宮に通うようになったのは、まだ「産経アトムズ」の頃で、それがそのうちに「ヤクルト・アトムズ」になった。あれからもう50年経つんですね。50年経ってもまだヤクルトを応援しているなんて、そんなこと当時は想像もしなかったけど。
今でも印象としてとても鮮やかに残っているのは、三原脩さんが監督をしていた時代だ。三年くらいしか監督をしなかったし、そのあいだずっとBクラスだったんだけど、とても独創的な面白い野球で、いろんな奇策を用いて、たとえ強くなくても試合を見ているだけで、スリリングでわくわくした。
勝つ勝たないももちろん大事なんだろうけど、やはり面白い野球って大事だよなと、僕は思います。
神宮に通うようになったのは、まだ「産経アトムズ」の頃で、それがそのうちに「ヤクルト・アトムズ」になった。あれからもう50年経つんですね。50年経ってもまだヤクルトを応援しているなんて、そんなこと当時は想像もしなかったけど。
今でも印象としてとても鮮やかに残っているのは、三原脩さんが監督をしていた時代だ。三年くらいしか監督をしなかったし、そのあいだずっとBクラスだったんだけど、とても独創的な面白い野球で、いろんな奇策を用いて、たとえ強くなくても試合を見ているだけで、スリリングでわくわくした。
勝つ勝たないももちろん大事なんだろうけど、やはり面白い野球って大事だよなと、僕は思います。
村上春樹さん
(小説家)