ヤクルト球団は2019年に球団設立50周年を迎えます。
(国鉄スワローズ創設は1950年となります)

これまでの50年の中で、勝った時には心の底から喜び、
負けた時には心の底から涙を流し、
どんな時でも声を枯らして選手に声援を送ってくれたスワローズファンのために。

そして設立50周年を迎え、100周年に向かっていく
新たな歴史を担う未来のスワローズファンのために。

2019シーズンを通して

「スワローズファンになってくれてありがとう」

という感謝を込めて、ファンの皆様のために様々なイベントをご用意いたします。

関連ニュース

ヤクルト球団
ヒストリー

ヤクルト球団50周年を記念して、1969年の球団スタートから現在までの球団ヒストリーを
スワローズのOBと一緒に振り返っていきます。

1978年のリーグ初優勝&日本一、
4度のリーグ優勝と3度の日本一の栄冠を手にした90年代のID野球黄金試合。
そして現在の東京ヤクルトスワローズまでをご紹介します。

球団創立は1950年まで遡ります。その年からプロ野球の2リーグ制がスタートするのに際し、参入球団として誕生したのが、国鉄スワローズです。その後サンケイを経て、1969年から現在のヤクルト球団になっています。

西垣徳雄監督

1950-1953

国鉄スワローズ球団を結成する

1950

セ・リーグ6チーム制(120試合)を採用

1953

藤田宗一監督

1954-1955

宇野光雄監督

1956-1960

砂押邦信監督

1961-1962

球団結成以来初めての3位でAクラス入り

1961

浜崎真二監督

1963

林義一監督

1964-1965

砂押邦信監督

1965

「サンケイスワローズ」として新発足

1965

飯田徳治監督

1966-1967

チーム名を「サンケイアトムズ」に改める

1966

中原宏監督[代行]

1967

別所毅彦監督

1968-1970

「ミスタースワローズ(若松勉)」が語る
入団秘話と初の日本一

元々、身体が小さくてプロ野球に入る気はなかった。ずっと断っていたが、 中西太コーチがスカウトと一緒に札幌まで来て、「野球選手は身体に関係なく、下半身がしっかりしていれば」と父親に話してくれて入団を決めた。 中西さんに言われた通り、下半身を徹底的に鍛えて自分のフォームを固めた。1978年、広岡達朗さんが監督の時に優勝したが、それまで勝てない時期が続いたし、 小さい頃から大きな優勝を経験したことがなかったので、とても嬉しかった。ヤクルトは、野球選手を引退した後の第2の人生もしっかりと考えてくれる温かみのある球団。 若い選手を育てて、強いヤクルトを目指して頑張ってほしい。

別所毅彦監督

1968-1970

ヤクルト球団設立

アトムズのオーナーに松園尚巳氏(ヤクルト本社専務取締役)が就任

チーム名が「アトムズ」に変更

1969

小川善治監督[代行]

1970
1969-1970

チーム名を「ヤクルトアトムズ」に変更

1970(6位)

三原脩監督

1971-1973
1971-1973

イースタン・リーグで初優勝(64試合38勝23敗3分、勝率.623)

若松勉外野手入団

1971(6位)

若松勉外野手、打率.329で球団初の首位打者

イースタン・リーグ2年連続優勝
(64試合46勝18敗、勝率.719)

1972(4位)

荒川博監督

1974-1976
1974-1977

13年ぶりにAクラス(3位)入りを果たす(130試合60勝63敗7分、勝率.488)

1974(3位)

大杉勝男内野手を日本ハムからトレードで獲得

1975(4位)

広岡達朗監督

1976-1979

松岡弘投手、100勝目を完封で飾る

若松勉外野手、プロ29人目のサイクルヒットを達成

1976(5位)

球団創立以来初のリーグ2位(130試合62勝58敗10分、勝率.517)

1977(2位)
1978-1989

日本シリーズで阪急ブレーブスを下し、初の日本一!

球団結成29年目にして初優勝!
(130試合68勝46敗16分、勝率.596)

開幕以来129試合連続得点のセ・リーグ新記録を達成

通算141試合連続得点の日本新記録を達成

1978(1位)日本一 / リーグ優勝

佐藤孝夫監督[代行]

1979

7年ぶり3度目のイースタン・リーグ優勝
(70試合42勝23敗5分、勝率.646)

1979(6位)

武上四郎監督

1980-1984

松岡弘投手、防御率2.35で最優秀防御率投手

1980(2位)

青木実外野手、34盗塁で盗塁王

1981(4位)

若松勉外野手、1500安打達成

1982(6位)

「甲子園のアイドル」荒木大輔投手入団

大杉勝男内野手、現役を引退

1983(6位)

中西太監督[代行]

1984

尾花高夫投手、後半戦11勝2敗3セーブとフル回転

1984(5位)

土橋正幸監督

1984-1986

若松勉外野手、2000安打達成

1985(6位)

7月4日の中日戦から伊東昭光投手、阿井英二郎投手、高野光投手で3試合連続完投勝利

1986(6位)

関根潤三監督

1987-1989

ホーナー内野手入団、「ホーナー旋風」で台風の目に

1987(4位)

抑えの伊東昭光投手が18勝で最多勝獲得

長嶋一茂内野手入団

1988(5位)

パリッシュ内野手、本塁打王(42本)獲得

広沢克己内野手、パリッシュ内野手、池山隆寛内野手と合わせて93本塁打

通算打率.319の若松勉外野手、涙の引退

1989(4位)

「野村克也元監督」が語る
ID野球と黄金時代

現役時代、セ・リーグに縁がなかった私に、相馬和夫球団社長が「あなたの野球を叩き込んでほしい」と声をかけてくださった。 勝負に徹するあまり、厳しく当たったかもしれないが、選手は皆よく応えてくれ、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一を果たせた。 また、教え子たちが指導者としても活躍してくれた。「人を遺す」ことができたのが何よりスワローズへの恩返しになっただけでなく、 私の野球人生においても大きな喜びだ。感謝しかない。

野村克也監督

1990-1998
1990-1993

野村克也監督が就任。データ重視の「ID野球」を旗印に掲げ、チーム改革をスタート

1990(5位)

11年ぶりAクラス

古田敦也捕手、打率.340で首位打者

1991(3位)

14年ぶり2度目のリーグ優勝!
(131試合69勝61敗1分、勝率.531)

ハウエル内野手、首位打者(.331)とホームラン王(38本)の2冠獲得で、リーグMVP受賞

古田敦也捕手が、打率.316、30本塁打と貢献

飯田哲也外野手、33盗塁で盗塁王

1992(1位)リーグ優勝

日本シリーズで西武に雪辱し15年ぶり2度目の日本一!

神宮球場のファンの前で3度目のリーグ優勝!(132試合80勝50敗2分、勝率.615)

古田敦也捕手がリーグMVP

川崎憲次郎投手が日本シリーズMVP

伊藤智仁投手が新人王獲得

1993(1位)日本一/リーグ優勝
1994-1998

新マスコットの「つば九郎」登場

1994(4位)

2年ぶり3度目の日本一!

4度目のリーグ優勝!(130試合82勝48敗、勝率.631)

オマリー内野手、リーグMVPと日本シリーズMVPのダブル受賞

山部太投手、ブロス投手、石井一久投手、吉井理人投手、伊東昭光投手の5人が2ケタ勝利

1995(1位)日本一/リーグ優勝

故障者続出に泣かされ再びBクラス

1996(4位)

4度目の日本一!

球団初の完全独走Vで5度目のリーグ優勝!(137試合83勝52敗2分、勝率.615)

古田敦也捕手、リーグMVPと日本シリーズMVPのダブル受賞

ホージー外野手、本塁打王(38本)

1997(1位)日本一/リーグ優勝

川崎憲次郎投手、17勝で最多勝と沢村賞を獲得

再びBクラスで野村克也監督退任

1998(4位)

若松勉監督

1999-2005
1999-2005

若松勉監督誕生

ペタジーニ内野手、本塁打王(44本)と打点王(112点)の2冠獲得

1999(4位)

「古田敦也元兼任監督」が語る
チーム再構築の時代

僕だけでなく、主力がベテランになってきて若手に切り替えないといけない時期だった。 僕が言うのもおかしいが、16年間も一人のキャッチャーが基本的にはプレーしていたので、 一番の命題は僕の後継者を作ることだったと思う。出来るだけ若い選手にチャンスを与えなければいけなかったが、 なかなか結果が出なかったので申し訳なく思っている。やはり、優勝してファンに喜んでもらうのがプロ野球。 球場全体をスワローズファンで埋め尽くすくらいのチームになって、強くなってほしいと思う。

若松勉監督

1999-2005

3年連続Bクラスも、巨人の完全Vを阻止

春季キャンプを沖縄県浦添に変更

2000(4位)

日本シリーズで近鉄を破り、4年ぶり5度目の日本一!

若松政権初V 6度目のリーグ優勝!(140試合76勝58敗6分、勝率.567)
指揮官は「ファンの皆様おめでとうございます」でスタンドを沸かせた

古田敦也捕手、日本シリーズMVP

藤井秀悟投手、14勝で最多勝投手

ペタジーニ内野手、本塁打王(39本)と打点王(127点)でリーグMVP

2001(1位)日本一/リーグ優勝

石川雅規投手、新人王(12勝9敗)

ホッジス投手、17勝で最多勝

チーム一筋19年、球団史上最多の304本塁打の池山隆寛内野手、現役引退

2002(2位)

球団史上2度目、3年連続Aクラス

高津臣吾投手、セーブ&SPで日本新、最優秀救援投手(36SP)も獲得

ラミレス外野手、本塁打王(40本)と打点王(124点)の2冠に

ドラフト一位ルーキーの高井雄平投手、プロ初勝利

2003(3位)

球団初の4年連続Aクラス

川島亮投手、10勝4敗で新人王

2004(2位)

パ・リーグとの交流戦がスタート

青木宣親外野手、202安打、打率.344で首位打者&新人王

若松勉監督が退任

2005(4位)

古田敦也監督[選手兼任]

2006-2007
2006-2008

チーム名をヤクルトスワローズから、東京ヤクルトスワローズに変更

古田敦也兼任監督誕生、強力打線でAクラス復帰

2006(3位)

21年ぶり最下位

古田敦也兼任監督、現役引退&監督退任「また会いましょう」の言葉を残し、退団

2007(6位)

高田繁監督

2008-2010

高田繁監督就任

館山昌平投手、自己最多の12勝、リーグトップの勝率.800

福地寿樹外野手、初の盗塁王(42盗塁)

石川雅規投手、防御率2.68で最優秀防御率を獲得

高校ドラフト1巡目で入団の由規投手、巨人戦で初勝利

2008(5位)
2009-2012

接戦を制して初のCS出場

館山昌平投手、16勝で最多勝投手

福地寿樹外野手、2年連続盗塁王(42盗塁)

2009(3位)

「真中満前監督」が語るV字優勝と球団の伝統

ずっとヤクルトにいたので、選手の性格や能力は把握していた。 個性のある選手が多いのでその芽を摘まないように。 皆の個性を活かしながら戦えればと思い、それがうまく機能して優勝という結果になった。 ヤクルトは選手だけでなく、フロントと現場の距離感が非常に良いチームで、 人間味がある温かい球団。ファンあってのプロ野球だから、ファンを大事にする。 ヤクルトの伝統が、ずっと繋がってきていると思う。

高田繁監督

2008-2010

小川淳司監督

2010-2014

小川淳司監督代行で驚異の巻き返し

青木宣親外野手、2度目の200安打で3度目の首位打者(.358)

ガイエル外野手16本、飯原誉士外野手、デントナ内野手、ホワイトセル内野手各15本など、2ケタ本塁打選手がチームで7人

2010(4位)

東日本大震災(3月11日)の影響で、2週間遅れで開幕

序盤から快進撃で初のファイナルステージ進出

バレンティン外野手、31本塁打で初の本塁打王

2011(2位)

宮本慎也内野手が2000安打達成

2年連続CS進出

2012(3位)
2013-2015

6年ぶりのシーズン最下位

バレンティン外野手、日本新の60本塁打でMVPを獲得、最下位チームからは初の選出

16勝をあげた小川泰弘投手、最多勝、勝率1位で新人王を獲得

チーム一筋19年プレーした宮本慎也内野手、惜しまれつつ現役引退

2013(6位)

2年連続最下位も、投打に低迷脱出の兆し

バレンティン外野手、川端慎吾内野手、山田哲人内野手、畠山和洋内野手、雄平外野手の5選手が打率3割を越え、チーム打率リーグトップの.279をマーク、12球団最多の667得点を記録

ルーキー西浦直亨内野手、プロ初打席初球本塁打を記録

交流戦で山田哲人内野手、交流戦首位打者(打率.378)と日本生命賞に輝く

山田哲人内野手、シーズン193安打で日本人右打者最多安打記録更新

2014(6位)

真中満監督

2015-2017

新生・真中スワローズが"大混セ"を制し14年ぶり7度目のリーグ優勝!(143試合76勝65敗2分、勝率.539)

真中満監督は球団史上初の就任1年目での優勝監督

7月の月間チーム打率.307、113得点でリーグトップを記録

初のトリプルスリーを達成した山田哲人内野手、史上初のホームラン王(38本)と盗塁王(34盗塁)、最多出塁率者賞(.416)を同時受賞、リーグMVPも獲得

川端慎吾内野手、.336で首位打者と195安打で最多安打を記録

畠山和洋内野手、105打点で打点王に輝く

バーネット投手、41セーブでセーブ王

優勝を喜ぶ堀オーナー(現 相談役名誉会長)と衣笠社長

2015(1位)リーグ優勝
2016-

山田哲人内野手、打率.304、38本塁打、30盗塁(盗塁王)で、プロ野球史上初の2年連続トリプルスリーを達成

2016(5位)

故障者続出に泣かされ、シーズン45勝96敗2分、歴史的大敗も、若手の奮闘光る

7月26日の中日戦で10点差から逆転という史上4度目のプロ野球タイ記録

2017(6位)

小川淳司監督

2018-

セ・パ交流戦12勝6敗、勝率.667で最高勝率球団に輝く

前半戦最下位から、後半戦41勝24敗1分、勝率.631の快進撃で2位に躍進

2度の200安打を達成した青木宣親外野手がメジャーリーグから復帰

山田哲人内野手、3度目のトリプルスリー(打率.315、34本塁打、33盗塁)を達成

2018(2位)

ヤクルト球団設立50周年!

2019

ヤクルト球団は2019年に球団設立50周年を迎えます。(国鉄スワローズ創立は1950年となります)

これまでの50年の中で、勝った時には心の底から喜び、負けた時には心の底から涙を流し、 どんな時でも声をからして選手に声援を送ってくれたスワローズファンのために。

そして設立50周年を迎え、100周年に向かっていく新たな歴史を担う未来のスワローズファンのために。

2019シーズンを通して

「スワローズファンになってくれてありがとう」

という感謝を込めて、ファンの皆様のために様々なイベントをご用意いたします。

今後の発表に乞うご期待ください。

2019

「名誉会員」からの
スペシャルメッセージ

村上春樹さん
(小説家)

 神宮に通うようになったのは、まだ「産経アトムズ」の頃で、それがそのうちに「ヤクルト・アトムズ」になった。あれからもう50年経つんですね。50年経ってもまだヤクルトを応援しているなんて、そんなこと当時は想像もしなかったけど。
 今でも印象としてとても鮮やかに残っているのは、三原脩さんが監督をしていた時代だ。三年くらいしか監督をしなかったし、そのあいだずっとBクラスだったんだけど、とても独創的な面白い野球で、いろんな奇策を用いて、たとえ強くなくても試合を見ているだけで、スリリングでわくわくした。
 勝つ勝たないももちろん大事なんだろうけど、やはり面白い野球って大事だよなと、僕は思います。

 神宮に通うようになったのは、まだ「産経アトムズ」の頃で、それがそのうちに「ヤクルト・アトムズ」になった。あれからもう50年経つんですね。50年経ってもまだヤクルトを応援しているなんて、そんなこと当時は想像もしなかったけど。
 今でも印象としてとても鮮やかに残っているのは、三原脩さんが監督をしていた時代だ。三年くらいしか監督をしなかったし、そのあいだずっとBクラスだったんだけど、とても独創的な面白い野球で、いろんな奇策を用いて、たとえ強くなくても試合を見ているだけで、スリリングでわくわくした。
 勝つ勝たないももちろん大事なんだろうけど、やはり面白い野球って大事だよなと、僕は思います。

村上春樹さん
(小説家)

さだまさしさん
(シンガーソングライター・小説家)

さだまさしさん
(シンガーソングライター・小説家)

 ファンになって高々30年ちょっとの僕には永年の、殊に国鉄時代からのファンは『神』だ。
 とにかくスワローズファンは温かなホスピタリティに満ちて品が良い。球団も家族的で選手に優しい。選手同士もとても仲が良い。
 遠征・移動の際のネクタイ、スーツ姿もスワローズが始めた。
 昭和60年、阪神が神宮球場で優勝を決めたとき、スワローズファンは『阪神ファンの皆さん優勝おめでとう。日本シリーズ頑張ってください』という垂れ幕を掲げた。これには感動した。
 ファンは自分本位の利己主義的傍若無人な応援をしない。これは物足りなさの一面でもあろうが、最も愛すべき所でもある。だからアンチ・ファンがいない。
 そこのところが実に悔しいが幸せだ。

 ファンになって高々30年ちょっとの僕には永年の、殊に国鉄時代からのファンは『神』だ。
 とにかくスワローズファンは温かなホスピタリティに満ちて品が良い。球団も家族的で選手に優しい。選手同士もとても仲が良い。
 遠征・移動の際のネクタイ、スーツ姿もスワローズが始めた。
 昭和60年、阪神が神宮球場で優勝を決めたとき、スワローズファンは『阪神ファンの皆さん優勝おめでとう。日本シリーズ頑張ってください』という垂れ幕を掲げた。これには感動した。
 ファンは自分本位の利己主義的傍若無人な応援をしない。これは物足りなさの一面でもあろうが、最も愛すべき所でもある。だからアンチ・ファンがいない。
 そこのところが実に悔しいが幸せだ。

出川哲朗さん
(お笑いタレント)

 そのピッチャーは、マウンドでニヤニヤにやつきながら投げていた。当時、子供達はみなジャイアンツの帽子を被り、王選手はスーパースターだった。その王選手をいつもヘロヘロ球で抑えていたのが安田猛だった。 手足も短く、お腹もポッコリ出ている。そんなピッチャーが王選手を抑える様が、子供だった自分をワクワクさせた。気が付くと安田選手のファンとなり、ヤクルトスワローズを応援していた。以来、42年間スワローズを応援して来た。 低迷期も黄金期も。胴上げも何度か観させてもらった。だから、これだけはハッキリ言える。自分はこれからもお爺ちゃんになってもヤクルトスワローズを応援し続ける。そしてまた、92年の伝説となった西武との日本シリーズの様な熱い戦いを観せて欲しい。 ヤクルト球団設立50周年おめでとうございます。

 そのピッチャーは、マウンドでニヤニヤにやつきながら投げていた。当時、子供達はみなジャイアンツの帽子を被り、王選手はスーパースターだった。その王選手をいつもヘロヘロ球で抑えていたのが安田猛だった。 手足も短く、お腹もポッコリ出ている。そんなピッチャーが王選手を抑える様が、子供だった自分をワクワクさせた。気が付くと安田選手のファンとなり、ヤクルトスワローズを応援していた。以来、42年間スワローズを応援して来た。 低迷期も黄金期も。胴上げも何度か観させてもらった。だから、これだけはハッキリ言える。自分はこれからもお爺ちゃんになってもヤクルトスワローズを応援し続ける。そしてまた、92年の伝説となった西武との日本シリーズの様な熱い戦いを観せて欲しい。 ヤクルト球団設立50周年おめでとうございます。

出川哲朗さん
(お笑いタレント)